所有する主な資格

  • ファイナンシャルプランナー
  • 小型船舶免許1級
  • 終活カウンセラー
    (一般社団法人 終活カウンセラー協会)
  • 海洋散骨アドバイザー
    (一般社団法人 日本海洋散骨協会)
  • 日本の散骨の歴史 5.散骨という選択と法解釈

    平成3年(1991年)、市民運動団体の「葬送の自由をすすめる会」が発足し、海や山への散骨を「自然葬」と名付け、同年10月に第一回目の海洋散骨による自然葬を相模灘で行いました。この第一回目の自然葬はマスコミでも取り上げられ大きな反響がありました。当時の法務省は、マスコミ関係からの問い合わせに対し刑法190条で規定する遺骨遺棄罪と散骨との関係について「この規定は、社会的習俗としての宗教的感情などを保護するのが目的だから、葬送のための祭祀で、節度を持って行われる限り問題はない」という趣旨の見解を初めて明らかにしました。
    また、関連するもうひとつの法律「墓地、埋葬等に関する法律」について、当時の厚生省は「この法律は、もともと土葬を対象にしていて、遺骨を海や山に撒くといった葬法は想定しておらず対象外である」と述べました。
    こうした国の見解が明らかになったことにより、これまで違法だと考えられていた散骨が死者をともらう祭祀として相当の節度をもって行うならば違法ではないという法解釈が定着するきっかけとなりました。
    現在は、有名人をはじめとする多くの人が散骨を行うことになり、散骨に対する社会的合意ができつつあります。

  • 日本の散骨の歴史 4.火葬後、墓地に埋葬がスタンダードに

    戦後、昭和23年(1948年)に施行された新民法により、明治時代に作られた「家制度」は廃止され、夫婦単位の世帯を基本に様々な制度が整備されていきましたが、お墓などの祭祀財産(さいしざいさん)は分割して相続することができないため、戦前と同じように、基本的には戸主、慣例に従い長男が相続し管理することが規定されました。
    こうして、すべての国民は、死後は火葬されて墓地に埋葬されるのが当たり前という社会通念が出来上がりましたが、高度経済成長を経て、都市部への人口集中、少子高齢化、環境問題など様々な社会課題を背景に、墓地への埋葬以外の方法が出現し始めました。

  • 日本の散骨の歴史 3.火葬の普及

    現在では世界一を誇る日本の火葬率ですが、実は明治時代までは7割が土葬されていました。明治30年(1897年)の統計では、火葬はわずか29%。明治38年(1905年)では、大阪は90%と高いものの、東京は58%、埼玉や千葉は5%以下、宮崎、鹿児島、沖縄に至っては1%以下という数字が残っています。つまり都市部以外はほとんど土葬されていたことになります。
    その後、大正時代に火葬技術が飛躍的に進歩し、昭和12年(1937年)に近代的な葬祭ホールが併設された「瑞江葬儀所」を東京市が竣工したのを契機に全国的に火葬施設が広まっていきました。
    戦後、昭和23年(1948年)に「墓地、埋葬等に関する法律」が施行され、現在に至るまでの墓地法規となりました。この法律が作られた目的は、公衆衛生の側面が大きく、遺体は火葬場以外の場所で火葬してはならない、墓地以外の場所に埋葬してはならないと記載されています。この法律の成立以降、日本の火葬率は、100%に近くなるまで上昇して墓地の整備も進みました。

  • 日本の散骨の歴史 2.家制度と納骨

    一つの墓に何人も入るという現在のような「家の墓」が一般化したのは、明治31年(1898年)に施行された「明治民法」以降です。明治政府は、江戸時代の藩幕体制から、天皇を中心とする近代国家を作るためにさまざまな改革を行いましたが、その中で、天皇家の「万世一系」を強調し、すべての国民を戸主と家族からなる「家」を単位として統治しようとしました。いわゆる「家制度」の誕生です。
    この明治民法の法制化と全国的な火葬の普及によって「〇〇家の墓」という家墓は全国的に広まり、火葬による「収骨」「納骨」という儀式が生まれ、お墓は「家」の先祖を崇拝するシンボルとなり、子孫は「家」を存続させるために墓を守り、盆や彼岸や命日に墓参りをすることなど供養を続けていくことになりました。

  • 日本の散骨の歴史 1.火葬の始まりと葬儀

    日本の火葬率は、99.98%と、世界一を誇っています。その歴史をさかのぼると紀元前600年ころになります。
    紀元653年に遣唐使に追行して帰国した法曹宗の開祖となった高僧道昭が、紀元700年に遺命して自らを荼毘に付されました。これが我が国の火葬の起源だということが「続日本記」に記されていますが、大阪の堺市にあるカマド塚や和泉市の聖神社の古墳などの遺跡の発見により、火葬の風習はそれ以前にあったとも言われています。
    第53代の淳和天皇は、「いま、骨を砕いて粉として、山中に投ずべし」という宣旨(せんじ)を出し、840年に自らの火葬後の焼骨を京都、大野原の西山に散骨させ、山稜を作らせなかったといいます。遺灰をまくという習慣は、奈良時代に広く行われていたと言われています。
    「玉梓の妹は玉かも あしびきの 清き山辺に まけば散りぬる」の歌のように、万葉集には散骨について描写した歌がいくつかあります。
    江戸時代の初期に幕府は、キリシタン禁圧をねらって、寺院に檀家の戸籍を把握させたので、寺院が墓地を管理し、火葬を実施するのが一般的になりました。この檀家制度により庶民の間にも墓への埋葬が広まり、また、五人組制度の強化により、一般庶民も互助共済によって葬儀を手厚く執り行うことが増えました。江戸時代は幕府の政策である檀家制度によって葬儀から遺体・遺骨の埋葬供養に至るまで、寺院が絶対的な権力を有し続けたため、お墓を建てない散骨のような弔い方法は、あまり記録が残っていません。